フォーラム

2002.7.1現在


秋山氏講演の様子
現在はまさに乱世、もはやアメリカの保護のもとでの、戦後経済主義に専念するだけでは、立ち行かなくなっています。何を主張し、実現すべきか、一人一人の夢、力量が問われています。
秋山駿先生には「戦国−変革の世−を生きる」という演題で戦国時代”信長”を題材にお話しいただきました。現在の乱世を生き抜く心構えを教えていただきました。

秋山駿氏のご講演の概要

テーマ:「戦国−変革の世−を生きる」

私は信長と言う本を書いたおかげで、小泉首相と信長と言うような談話を去年いろいろと聞かれたりしました。苦し紛れにいうことは頭の毛、ベートーベンの髪型にしている。それと、信長は後の方ですけれども、南蛮衣装に帽子をかぶって、颯爽と馬に乗ったりしている、ああいうことを思いきってやる。その部分では小泉さんと似ています。あとはあまり小泉さんが似ているとは思わない。もう一つ、田中真紀子前外相更迭の、外務省の、その前からのやりとりは江戸時代と同じです。外務省と言うのは江戸城の大奥です。何かことがあったら官房長官周辺の所に言上すればすむ。これはお側ようにん政治です。今はそういうときです。本当は小泉さんが外務省にもう少し風穴開けたほうがよかったと思いますけれども。
 それで、信長が後にどんどん戦争に勝って、まあ負ける時もありますけれども、負ける時は自分が負傷兵を逃した一番最後なんですよ。それからその前突撃する時は自分行きますから。あの時の戦国武将でそういうやり方した人はあんまりいないです。信長という人はよほど、自信があるのか、度胸があるのか、死ぬならいつでも死んでやるというのがあります。「信長公記」でみると、信長というものはいつも7〜800の兵です。最初戦いだしたのが父親と時に忠臣だった人達。相手は常に1200とか1500です。7〜800ですから、いつも2倍くらいの相手と戦って勝っている。そのとき討ち死にした人の名前を見ると、信長の方は少ないんです。つまり名もない人たちなんです。これが相手にとって一番困ったことでなかったかと思います。
 日本は、戦争をいっぱい源平の頃からやってきた。おのずからあの頃は個人の武勇というより組織戦になっていますから、武器の揃え方というものが大切です。ところが信長はどういうふうに使うか分からない槍をそろえる。本当は軍令違反みたいなものです。もしかするとすぐ消去されるようなことをやってきた。ここが原点です。ここから勝ち上がってきた。これが後に戦争の仕方にはっきりでています。
 その代表が、桶狭間ですね。あれは乾坤一擲の戦いです。信長勢は全部足してやっと5000です。相手は二万何千ですからね。今川義元というのは偉い人ですよ。堂々たるもの。あの時代、京都に行って旗を立てようなんて思う人は誰もいないです。一年以上も準備をかけて、兵を訓練して、そして堂々と来る。これは誰が見たって信長が勝ちっこないです。それで信長は、いよいよ出陣の前夜、城内で中心会議やっているときに、いい加減に、さあもう寝ろと言うでしょ。篭城するのか攻撃するのか、手立てはどうするのかって何にもいわないで。次の日は、午前の2時ごろ起きて、それで有名な、敦盛の舞いを舞って出陣する。その時下の者、5・6騎だったそうです。駆け出して、だんだん後の兵が慌てて追っかける。ここが一番大切なところなんです。それを訓練していたんです。信長のことをみんな義元の所に告げに行きます。事実そうでしょう。出陣にしてもそうです。ちゃんと作戦があって、人数を揃えていったんじゃないですね。こんな戦争のやり方やられたから、義元は間違ったんです。桶狭間で酒宴をやっているというのは、これは油断ではないです。信長の居場所がわからなくなったから、逃げたと思ったんです。長い槍を持たせた足軽の若者みたいなのばっかりが中核です。あそこで名があがるんです。義元の首切った人とか槍をつけた人とか。その前は無名です、みんな。そういう軍隊を作るというのが凄さだと思う。それまで以前の常識にない物ですからね。


会場の様子

ささきの竜三の挨拶

朝倉氏遺跡を訪問する

秋山氏と戦国時代について意見交換
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