聞き手 何度か教育についてお話いただいているんですが、国家百年の計というだけあって、今先生の資質なども問われる時代なのかもしれないですが、その先生方が教育受けたのが20年前30年前。その時代の物が今に反映される。今の物が今度20年後30年後に反映されるというのがなんとなく分かるような気がしますね。
笹木 そうですね。教育ということで今までお話しているんですが、私の体験でちょっとビックリしたことがありました。この前もお話しましたが、3年ほど前から私ちょっと生活環境が変わりまして、今までに比べると、まあ毎日家に帰る。今までは東京が多くて週末だけ戻ってくるというパターンでしたが、3年前から比較的福井が多くて7割くらいはいつもちゃんと家に帰るという生活に変わったわけです。そうしたら子供が、その頃小学生だった子供が「最近お父さんの顔をよく見るようになったよ」とこういうことを言いまして、ちょっとビックリしました。
教育のことを考える場合に一般的に、教育のここが悪いとかいうんですが、やっぱり家庭というか親、これは教育に決して無関心でいられないはずですし、それこそ担う責任があると思います。もっと言えば昔は地域でも結構、隣のおじいちゃんおばあちゃんが子供を注意することもあったし、色々な交流もあった。で学校と。この3つなんですよね。
色々な教育のことをいう時には、結構他人事みたいにいう人もいるんですが、じゃあ地域とかあるいは家庭、親が出来ることをやっているか。ここもすごく問わないといけないと思うんです。
先々週ご紹介した「よのなか科」というのをはじめている学校では、その授業参観している父兄もかなり、例えばいろいろ新しい「よのなか科」という授業やっているときに、子供は必ずしもいつも手を挙げて話すだけではなくて、ちょっとまだ意見にならない感想みたいなのを隣の友達とつぶやいたり、そういうのを見逃さないで区切りになった時間に何が言いたかったのかなって。
これやっぱり1人の先生ではやれないんので、その父兄なんかも手伝ってやるらしいです。そうすると結構そこにいい意見の芽が出ていたりして、そういうのを早く発見してどんどんその考えを膨らませていくというか、そしてちゃんと意見につなげて、発表につなげていく。そういうことを父兄も協力して「よのなか科」をやっているということです。
福井に戻しますと、福井で来年から高校の学区制がなくなるといわれています。学区制がなくなってどうなのか。少なくても全県どこでもどこの高校でも受けられるようになるわけですから、学校側としてみると先生も含めて、もう地域にいるから来てくれるとは限らないので、選ばれるという意識は非常に高まっているといわれています。
例えば中学3年生に対する事前の高校見学会なんかをかなり頻繁にやるようになったし、やる高校も増えている。選ばれるという意識が確実に高まっている。しかし一方で、結局これは昔ながらの偏差値教育の序列化をただ復活させるだけではないのかと。
また福井県で一番の進学校はどこどこ、2番目がどこどこ。ただそれに戻すだけの結果しかないんじゃないか。いわゆる多様な子供に応じたそういう教育に変わっていくことは結局ないんじゃないかという、そういう慎重論ももちろんまだあります。
ただその話でいいますと、外にいる父兄とか地域の人は他人事として言っているんではなくて、じゃあそれを変えるために自分達がどういう発想を持ったらいいかとか、どんな役割を担えるかとか、やっぱりここまで考えるべきで、もう他人事で言っている時期はとうに過ぎている。
少年犯罪とかいろいろなことを見ましても、あるいは犯罪だけじゃなくても、よく今の20代前半の方が企業に勤めても結局長く続かない、1年2年でやめてしまう20代が非常に多いといいます。これもよく考えてみると、もちろんそういう職業意識とか社会意識をもっと早い、小さいうちから教えていかないといけないんでしょうが、それとともにやっぱり企業も含めて、まだ昔ながらの画一化というか、教育もそうですが、それが残っている。
日本は追いつけ追い越せで明治以来やってきて、それは優等生になったわけですが、今はもうそれではこの先がない。それこそそれぞれが知恵を絞らないといけない。創造性が求められている。じゃあ企業もそうなっているかというと、これは今変わろうとしている最中ですね。若い人の立場に立ってみると、まあ引きこもりの問題とかも含めまして、自分が本当に社会の中でやりたい、なんとなくの夢。しかしそれと実際の職場でのやっていることのギャップ。これがありすぎて続かない。
すごく好意的に考えるとやっぱりそれがあって、ベンチャーの人にこの間東京でお話する機会があったんですが、「ベンチャーというのは挑戦だし冒険だ。だからベンチャー企業を興す人は必ず新しい職種を作らないといけないんだ。今までなかった職種。これつくられないと単にディスカウントの店をやっているだけとか、これはベンチャーじゃないんだ」とその人は言うんです。
ですから若い人でも、今の仕事は自分の気持ちに合わない。それなら自分で新しい、社会のために自分がこういうふうにやりたい。それでなんとか自分1人とかあともう1人ぐらい食っていけるような職を何か生むことが出来るか。あるいはそんなことまで含めて頑張れるかどうか。そういうこともおそらくこの日本全体にも福井にも問われていると思うんです。
で、そういう知恵が、あるいは意思力が、気力が必要だということで、この「よのなか科」というのを東京の杉並区の公立和田中学校ですが、民間の方を校長先生にしてやっているということです。で、その方が校長先生になる前に色々教育のことを調べていてビックリしたというのが、今使われている中学校の社会についての、実社会についての教科書です。公民とかいいますが、まず公民という言葉自体があんまり一般社会で使わないわけです。
聞き手 そうですね。学校出たら使うことがさらになくなります。
笹木 そうですね。まあだから自分のことだけではなくて社会のことを考える大人になろうということなんでしょうが、例えば実社会の経済について、色々な教科書とか文章が紹介されているんですが、「経済活動の中で貨幣は次の働きをしている。そのひとつは財やサービスの価値を価格の大きさとして表現する価値の尺度としての働きである。
ふたつには商品、代金の支払いや給料の支払いに利用できる支払いの手段あるいは交換の手段としての働きである。三つ目は貯蓄など価値の保存をする働きである。」これ毎日一応お金使っている、色々なやり取りをしている大人が読んでも、「だから何なんだよ」というか、まあ抽象的で面白くもくそもない文章ですよね。
これを中学生が読まされて、しかも試験があるから覚えなくてはいけないわけです。これがおよそ知恵とか創造性とか実社会を実感することにつながっているのかということですよね。
聞き手 100円玉と10円玉で自動販売機でコーラ買うときに果たしてそんなこと考えながら買っている人はいますかね。そのぐらいだったら一度、社会見学で商売していらっしゃる方の横で体験してみるとか。お金はこんなふうに回るのか、なるほどこうやって儲けが出たらそれをこういうふうにまた次に活かすのかとかっていう、そういう実感を伴うものってないですね。
笹木 そうなんですよね。だからこういうことをただ頭でそれこそ覚えるだけですよね。だから実感が伴わないし実社会のことも結局全然分かっていない。だからこの「よのなか科」の授業では、社会的役割を自分が実感としてイメージできるために役割、まあ小演劇ですね、をやるわけですね。例えばハンバーガーのお店の店長の立場で、お客の立場で、店員の立場で、それぞれ基礎的なことだけ説明してから役を演じさせる。
円高とか円安のこともそこで色々学ぶようにするとか。自分が市長になったら、町の町長さんになったら、あるいは総理大臣になったらどうかということで、例えばスウェーデン型の高福祉高負担の社会にするか、アメリカ型の低負担、税金を低くしてしかし老後も自分でちゃんとやってくださいよという、そういう社会がいいのか。これも議論をして今言った役割分担でロールプレイング、演劇もさせる。
そうするとやっぱり、かなり大人が言っているような議論とほとんど同じ題材が出てくるんですね。この米国型だとどうだという時に、「それやっぱり年取ってから困るだろう」という意見が出てくる。でもそれに対して米国型がいいという生徒は「いや若い時にお金ためればいいんだよ」と。もっといえば「高負担で税金が高くなると働く意欲がわかなくなるよ」とかそんな意見も出てくる。
それに対して今度スウェーデン型をいう人は、「いや将来が安心だったら、安心して生活できるし、色々な物が買える。税金いっぱい持っていかれると手元に残るお金がなくなるから使えるお金を増やすために逆に一生懸命働くんじゃないか」なんて意見が出てくる。役割を演じさせて議論することで実社会を実感できる。
大事なことは生徒を主人公にすることだといいます。もうひとつは知識をただ憶えるのではなくて、知的な好奇心が湧くように、社会のことを考えるようにする。これが原則だって言うんですね。
聞き手 本当にそのロールプレイングというのは有効なんだろうなと思います。これは反面教師になってしまうのかもしれないですが、コンピュータ画面の中でゲームとしてロールプレイングしたものを現実の犯罪に生かしてしまうようになってしまう。そうじゃないんだと。社会の中でどんな役割を演じられるか。それは「あなた達にこんな可能性がある」ということをどれだけいきいきと伝えられる大人がいるか、先生がいるかということなんでしょうね。
笹木 それはだから地域にも親にも求められるし、おそらく学校教育、学校との連携、も色々あると思うんです。それと最後にすごいこれはショックだった、昨日のことなんですが、こういう話をしていたら、若い20代の方が、「いやあ、政治関係のビラとか選挙のビラとか、あるいは政治関係の報道とかってほとんど社会科の教科書と同じくらい退屈で訳わかんない」というんですね。結局今言った公民の教科書と同じようなことを今までの政治というのはやっているのかもしれませんね。